都岐沙羅(つきさら)とは?

岩船地域の歴史を紐解いてみると、大和時代、朝廷は蝦夷に備えて大化4年(648年)に磐舟册を造り、その10年後の斉明4年(658年)に「都岐沙羅の册造には位二階授く」という記述が日本書紀に出てきます。

 

磐舟册の位置については、塩野町(旧朝日村)、旧荒川町荒屋、同町名割などが新潟県史であげられていますが、岩船神社が現存する村上市岩船の明神山から諸上寺山・浦田山に至る一帯ではないかという説も有力とされています。(この他にも、関谷村(関川村)所在説もあります。)

 

いずれにしても、この地域を表す「岩船」は、この磐舟册が語源となっているようなのですが、そこで気になるのが「都岐沙羅册」という名です。

 

「大日本地名辞書」によると、淳足册・磐舟册・出羽册がいずれも日本海沿岸に位置することから、都岐沙羅册もこの一線上にあったと推定しており、磐舟册の別名であった可能性を述べています。都岐沙羅册・磐舟册の位置は、現在いずれも不明ですが、当時この地域は大和朝廷の最前線となる重要拠点であり、旧山北町にある「日本国」を境に、この地域までが当時の日本であったと解釈し、「岩船」と「都岐沙羅」を同等の意味に私たちは捉えました。

 

都岐沙羅という名前は、イメージ的にも、その文字列から受ける美しい印象、音としての新鮮な響き、そして何よりこの圏域のルーツを表す言葉として、圏域のイメージを高めるシンボル性を持っています。そこで、「村上」と「岩船」の名称が混在する岩船広域圏での新しい地域づくりの愛称として、この「都岐沙羅」という名を使うようになりました。

 

注)册というのは、今でいう前線基地です。